2003/11/20 呼びかけ
「二一世紀は『ケア』の時代である、とよくいわれるようになってきた。そうなると、個々のケアの実践を超えた、あるいはそれを根底で支えてくれるような、『ケアの哲学』とでもいうようなものが必要になっているように感じられる。」(広井良典『ケア学』)
「〈老い〉のかたち、〈老い〉の文化が、〈老い〉そのものの内にも外にも見えない……。〈老い〉は空白のままである。
〈老い〉は、ものすごくラディカルな、つまり社会にとって根底的な問いとして、いま立ち現れている。」(鷲田清一『老いの空白』)
「わたしは、わたし以外のひとから確かなことを聴きたいとおもうようになった。 わたしをほどいてくれるその声は、けっして『強い』場所から発せられるものではなかった。 『弱い』場所から届くひりひりした言葉が、なぜかわたしをぎりぎりのところで支えてくれた。」(鷲田清一『〈弱さ〉のちから』)
学びたい。そんな気が静かにおこってきている。
日々の生活に追われて、ただ過ぎていくだけでいいのか。もう少し輝いてみたい。内から自分を変えてみたい。
鷲田さんの学問は「臨床哲学」といわれる。
「臨床」- つまりこの哲学は「現場」から発せられるということか。
わたしたち「現場」にいるものが、その「哲学」にふれる。
生の姿で、普段着で、ふつうの言葉で参加する。
そんな試みとしてこの会は生まれる。
2003/12/21 準備会
会の進め方等について話し合う。
会は次のように進めます。
①〈ケア〉(かなり広い意味にとらえている)、及び〈ケア〉にかかわることについて学びます。さらに、そこから展開するすべてのことが学習テーマとなります。
②学習会・読書会……例会<月1回程度>は、各回、テーマを定め、それに沿って進めますが、脱線・道草も厭いません。
③懇親会……学習会・読書会後、希望者による軽い食事会を行います。(持ち込み歓迎)
④当面、鷲田清一氏の文献を中心に学ぶ。
2004/2/1 第1回
鷲田清一著『〈弱さ〉のちから』(講談社)より「キャンピー感覚」、「迷惑かけて、ありがとう。」ほか ⇒ ケアというものを考える核心的なヒントがこの本の中に……。
第1回例会 学習内容より《ピックアップ》
……ほんのさわりだけ……
『〈弱さ〉のちから』より抜粋
■ケアについて考えれば考えるほど、不思議に思うことがある。なにもしてくれなくていい、黙っていてもただ待ってくれているだけでもいい、とにかくただだれかが傍らに、あるいは辺りにいるだけで、こまごまと懸命に、適切に、「世話」をしてもらうよりも深いケアを享けたと感じるときがあるのはどうしてなのか。
― 結果としてある深いケアが成り立っているような光景 ―
■弱い者たちが弱いままにそれでも身を支えてゆくためには、繕いが要る、支えが要る。その繕いに、その支えに、強いひとではなく、おのれの弱さに震えてきたもうひとりのひとが身を張って取り組む場面、それがわたしが間近で接した十二の《ホスピタルな光景》だった。
それらの《ホスピタルな光景》にはしかし、いつも、どんな場面でも、ある反転が起こっていた。存在の繕いを、あるいは支えを必要としているひとに傍らからかかわるその行為のなかで、ケアにあたるひとがケアを必要としているひとに逆にときにより深くケアされ返すという反転が。より強いとされる者がより弱いとされる者に、かぎりなく弱いと思われざるをえない者に、深くケアされるということが、ケアの場面でつねに起こるのである。
■人に迷惑をかけること
『えんとこ』 ……遠藤滋さんとこ、縁のある所
二十四時間要介助の遠藤さんは他のだれかに身をまかせなければ生きていけない。そういうふうに無防備なまでにありのままの自己を開くことで、逆に介助する側が個人的に抱え込んでいるこだわりや鎧をほどいていく光景がここに開けている。
介助とは「お互いにそのいのちを生かしあう、そういう関係を創りあげていくための窓口」だと遠藤さんは書く。その窓口を「介助者募集」というかたちで開く。
「君が今やりたいことを、真っすぐに人に伝えながら、できないことはみんなに手伝ってもらって、堂々と生きていきなさい。先回りして、人がどう思うだろうとか、これはいけないことではないかとか、勝手に一人で考えてやめてしまう必要なんかないんだよ。自分から逃げていては何にも始まらない。だって、君は一人で勝手に何かをやっていくことなんて出来ないだろう?」(遠藤)
「人に迷惑をかけること、それは大いに必要なことである」(遠藤)
2004/3/14 第2回
「ケア」や「援助」の現場に居合わせるすべてのひとの課題とは……
・鷲田清一著『〈弱さ〉のちから』(講談社)より「順調です。― べてるの家」、「めいわくかけて、ありがとう。」
・鷲田清一著『老いの空白』(弘文堂)より「べてるの家の試み」
学習内容より《ピックアップ》
……ほんのさわりだけ……
■「べてるの家」 …… 北海道は襟裳岬のそば 浦河という町 その町外れの一角に、キリスト教会付属施設として「べてるの家」がある。分裂病や躁鬱病などの「精神障害」に苦しむひと、もしくはその体験者、アルコール依存症のひとたちがともに暮らすグループホームであり、共同作業所である。
「あの人たちは嘘を言ったりとか無理をしたりとか、人と競ったりとか、自分以外のものになろうとしたときに、病気というス
イッチがちゃんとはいる人たちだよね。」(向谷地)
支援しなければならないひととして見ることが、「病む」ひとたちの行きづらさを余計に生みだす。ケアを受けるひととして、「病む」ひとを受動的な存在に押し込めてしまうからだ。「してあげる」ひとであることの可能性を奪い、「してもらう」ひととしてのあり方に閉じ込めてしまうからだ。
ひとがそれぞれに抱え込んでいる生きづらさをいっしょに担うこと、いっしょに考えること。
無理をしたり、容量以上にがんばったとき、その無理、そのがんばりを緩和するために「再発」があるということ。
「普通」のひとでも「精神障害」のひとでもない、〈ホモ・パティエンス〉(苦しむひと)として人間を見ることということが、社会生活の共通の出発点
「弱いところのそのまた弱いところの、その中の弱いところがすばらしい」
(『老いの空白』より)
2004/4/18 第3回
①〈老い〉の、何が問題なのか
②「相互ケア」、「その他の〔親密な〕関係」について
⇒①鷲田清一著『老いの空白』(弘文堂)より
「1.〈老い〉はほんとうに「問題」なのか?」
②鷲田清一著『〈弱さ〉のちから』(講談社より
「めいわくかけて、ありがとう。」
学習内容より《ピックアップ》
……ほんのさわりだけ……
■〈老い〉は「問題」か
だれもがそれぞれにそれぞれの〈老い〉を迎える。
〈老い〉は、ふつうのひともしくはふつうの家族に普通に訪れることである。
〈老〉とは、〈幼〉とならび、じぶんの力だけではみずからを世話できない状態であるとも言える。〈老〉と〈幼〉は援助の必要なものである。 人間は介護されつつ誕生し、生育し、しばらくの間自立し――これもほんとうは分業というかたちで支えあいのなかにある――、そしてふたたび介護されつつ死んでゆく。
〈老い〉はいま「問題」として受け止められる。しかし、 なぜ 「問題」としてしか浮き立ってこないのか。〈老い〉は〈幼〉とともに、人生の一季節としてだれをも訪れるものであるのに。
(『老いの空白』より)
■ケアは双方向的…… 支えあい……
支えあいというのは、けっして理想なのではなくて、ひとであるかぎり必然の事実なのである。
ケアがもっとも一方通行的に見える「二十四時間要介護」の場面でさえ、ケアはほんとうは双方向的である。
〈老〉と〈幼〉に共通するのは、いずれも単独で生きることができないということである。いいかえると、他のひとの世話を受けるというかたちでしかその存在を維持できないということである。が、その世話が、支えあいというよりも、一方から他方への介護であったり保護というかたちをとるしかないのは、哀しいことである。ひとはただ生きてあるだけでなく、生きるということ、じぶんがここにあるということ、そのことの意味をも確認しながらしか生きられないものであるのに、介護や保護やときに収容や管理の対象としてしかじぶんの存在を思い描くことができないときには、じぶんがここに生きてあるということについて意味を見いだすのがひじょうにむずかしくなるからである。
〈老い〉はいま、「〈養う者・養われる者〉という二文法的な社会的カテゴリー」の中に収容されており、老いる者が受動的な存在であること、老いが他律的なものであること(「従順で愛らしい老人」)が強いられている。要は、高齢者はこの社会では受け身であるしかない。
〈老い〉は保護や介護、ときに収容や管理の対象とみなされてゆく。年老いて、じぶんはもう消えたほうがいいのではないか、じぶんはお荷物、厄介者でしかないのではないかと問わないで生きえているひとは、少なくない。無力、依存、あるいは衰え、そういうセルフイメージのなかでしか〈老い〉という時間が迎えられないということが、 〈老い〉の空白でなくていったい何だろうか。
(『老いの空白』より)
2004/5/29 第4回
・〈老い〉の、何が問題なのか
・〈老い〉とは人にとって、はたしてどういう事態なのか
・「感情労働」とは……人とのかかわりを職業とすることの意味
⇒・鷲田清一著『老いの空白』(弘文堂)より
「1.〈老い〉はほんとうに「問題」なのか?」
「2.できなくなるということ」)
・石川准著『見えないものと見えるもの』など
学習内容より《ピックアップ》
……ほんのさわりだけ……
■「感情労働」……職務内容に沿ってそれにふさわしい感情の状態や表情をつくりだす、そんな感情の自己管理が要求されるような仕事のこと。言いかえると、作業じたいはあきらかに労働なのだが、じぶんの労働がさし向けられている相手に対して、まるで家族か友人か恋人のような親密なつきあい方をしなければならないような仕事のことだ。
ケアのさまざまな職務というのは、言うまでもなくそういう典型的な「感情労働」のひとつだろう。患者に対してよそよそしくしてはいけないし、深い共感なしにはできないことも多い。しかし同時に、職業人としての冷静な判断が強く求められるのも、この仕事の特徴だ。世話と労働という二つの局面を日常的にうまく重ね合わせ、ときに内面でその二つの顔に引き裂かれるおもいをすることが多いのが、ケアという仕事だ。
こうした職務(ケアのさまざまな職務)には燃えつきや共感疲労など、きついリスクがともなう。
そういうケアの日常に疲弊しはじめたときは、「使命」といった精神的な意味でじぶんを励ますよりも、「感情労働」としてそれに労働という面から光を当てることで心の負担を少なくできるということもある。
(『〈弱さ〉のちから- ホスピタルな光景』より)
2004/7/3 第5回
・〈老い〉とは人にとって、はたしてどういう事態なのか
・「ただいる」ということだけで人の存在には意味があるのでは……
・相互に依存しないでは何ひとつできない、人間の〈弱さ〉について
⇒鷲田清一著『老いの空白』(弘文堂)より
「2.できなくなるということ」
「5.〈老い〉の破壊性」
「6.〈弱さ〉に従う自由」
2004/9/4 第6回
「べてるの家」に学ぶ
⇒鷲田清一著『老いの空白』(弘文堂)より
「7 べてるの家の試み」
鷲田清一著『〈弱さ〉のちから』(講談社)より
「順調です――べてるの家」
2004/10/30 第7回
① ・「できる」ことと「できない」こと。